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5分でわかるメタリカ

「メタリカとは何ぞや!?」な、あなたのために
サクッとメタリカのことを知ってもらうページです。

黎明期

メンバーの入れ替えからアルバムデビューへ

若手バンドのコンピレーション盤参加を打診されたド素人ドラマー、ラーズ・ウルリッヒ。すでにロサンゼルス地元誌のバンドメンバー募集をきっかけに知り合っていたジェイムズ・ヘットフィールドを誘う形で1981年、メタリカは結成される。

初音源となる「Hit The Lights」が録音されるのとほぼ機を一にしてギタリストとしてデイヴ・ムステインが加入。その後、伝説のデモテープと呼ばれることになる「No Life 'Till Leather」が録音され、ファンジンなどを通じてテープが出回り、メタリカの名前はマニアの間で広がった。

デイヴとの確執で嫌気が差したロン・マクガヴァニー脱退により、ベーシストが不在となったメタリカはサンフランシスコで活動していたクリフ・バートンにラブコール。バンドのサンフランシスコ移住を条件に加入を果たす。

ロン脱退前からドラッグ・アルコールで問題を抱えメンバーとの確執があったデイヴ・ムステインをデビュー・アルバムの打ち合わせ前にバンド側が電撃解雇。ギタリストの後任にカーク・ハメットを迎え、83年にはデビューアルバム『KILL 'EM ALL』がリリースされる。

発展期

メジャーレーベル移籍、そしてクリフの死を乗り越えて

アルバムデビューを果たしたメタリカはアメリカ国内でのツアーの後、人気が先行していたヨーロッバツアーを開始。そのままラーズの故郷であるデンマークにて2ndアルバム『RIDE THE LIGHTNING』のレコーディングを行う。このアルバムはインディー・レーベルとしては異例のセールスを記録し、ついにメジャー・レーベルであるエレクトラとの契約を獲得することとなった。

86年には3rdアルバム『MASTER OF PUPPETS』をリリース。MTV全盛の時代にプロモーション・ビデオなしでビルボード・チャートをかけ上がり、発売後4週間で31位を記録。売り上げでもバンド初のゴールドディスク(50万枚以上)を獲得した。

しかし、86年9月27日、ヨーロッパツアーで移動中のツアーバスの事故によりクリフ・バートンは車外へ放り出され即死。24歳という若さだった。バンドの精神的支柱だったクリフの死は大きな痛手だったが、残されたメンバーはメタリカを継続することこそクリフの遺志と決意。オーディションによりジェイソン・ニューステッドを後任に迎え、活動を再開する。

同86年にはクリフの生前から決定していた初の来日公演を果たしている。

繁栄期

グラミー賞受賞、メジャーバンドとしての歩みへ

88年には4thアルバム『...AND JUSTICE FOR ALL』を発表。ベースの音が聴こえないなど物議を醸したが、収録曲「One」ではバンド初のプロモーションビデオも作られ、翌89年にはグラミー賞に新設されたヘヴィメタル部門にノミネートされるなどメジャー・バンドとしての歩みを始めることとなった。(その年は受賞を逃すも、翌90年から3年連続でグラミー賞を受賞している。)

91年、通称ブラックアルバムと呼ばれる5thアルバム『METALLICA』を発表。ボブ・ロックをプロデューサーに迎え、これまでの速さや激しさではなく重さとグルーヴを重視したこの作品でついにメタリカはビルボード全米1位を獲得する。

このころにはソ連崩壊真っ只中のモンスターズ・オブ・ロックのモスクワ公演や、ガンズ・アンド・ローゼズとのダブル・ヘッドラインツアーなどライブツアーを精力的に行いビッグ・バンドとしての地位を獲得するに至る。

円熟期

ジャンルの垣根を越えたモンスターバンドへ

前作発表から5年後の96年、同じくボブ・ロックをプロデューサーに迎えて6thアルバム『LOAD』発表。バンドメンバーが長髪を切るなどのイメージチェンジ、そして何よりブルースやカントリーなどの要素も取り入れ、シングルではテクノ・ミックスまで披露するなど前作からさらなる大きな変化を遂げ、古くからのファンをはじめ賛否両論を巻き起こすことになった。

翌97年には『LOAD』と2枚組で発表する予定だった『RELOAD』を発表。前作と同様全米1位を獲得する。

さらにシングルやミニアルバムで発表していたカバー曲に新録カバー曲を加えたカバーアルバム『GARAGE INC.』やサンフランシスコ交響楽団との共演ライブをおさめた『S&M』を発表するなど、ルーツをたどった作品やジャンルを超えた活動を行いヘヴィ・メタルでは括れないモンスターバンドとしてのイメージも確立することとなる。

後退期

ナップスター騒動、ジェイソン脱退、バンド解散の危機

2000年に入るとメタリカは楽曲を無断で提供していた「NAPSTER」に対し訴えを起こす。自分たちの著作権を守るためのことだったが、バンド側が証拠として「NAPSTER」利用者のハンドルネームを公開したことから事態はさらにヒートアップ。すでにメジャーバンドとして成功していたメタリカは「金の亡者」「ファンを敵に回した」といった批判・非難を受けることとなった。

バンド内では01年にベーシスト、ジェイソンが「肉体的疲労」を公式ステートメントとして発表し脱退。同年に発売された「PLAYBOY」誌に掲載されたメタリカのインタビュー記事により、メンバー間に横たわる確執が表沙汰となり、メタリカ解散の噂が現実味を帯びる事態となる。

さらにはジェイムズが休暇中のロシアでアルコール中毒を患い、リハビリのため施設に入所したことによりメタリカは実質、活動を休止することとなった。

復権期

リハビリからの復活、鶴次郎加入

2002年、ジェイムズがリハビリから復帰するとセラピストによるグループセラピーのもと繰り返された話し合いの末、バンド継続の意思を確認。ボブ・ロックを再びプロデューサーに迎えた新作にとりかかる。

ベーシスト不在のまま行われたレコーディングではボブ・ロックがベースを務めた。新作がほぼ完成した時点で新しいベーシストを加入させるためオーディションを行い、ロバート・トゥルージロが加入する。翌03年に8thアルバムとなる『ST. ANGER』をリリース。ひたすらアグレッシヴに満ちたこのアルバムは再び全米1位を獲得する。

04年には『ST. ANGER』制作過程のバンド内の衝突から絆を取り戻すまでの3年間を描いたドキュメンタリー映画『SOME KIND OF MONSTER』がサンダンス映画祭で上映される。

そして9作目となるアルバム、『DEATH MAGNETIC』をリック・ルービンを新たなプロデューサーとして迎えて制作。2008年9月に発表された。